奥州街道を歩く -喜連川宿周辺-
喜連川宿は、江戸時代に奥州街道、下野国塩谷郡にあった宿場町で家数290軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠19軒、人口1,198人であった。喜連川宿本陣は上野家、脇本陣は永井家が担っていた。宿内には龍光寺、薬師寺、喜連川神社、専念寺などの寺社が建ち、また宿内道側に一里塚があった。宿の北端の奥州道中筋は鉤状となっており、これが宿の内外を分けていた。
1弥五郎坂(早乙女の古戦場)
昔は早乙女坂(そおとめざか)といわれたところで、天文18年(1549)に2000余騎の宇都宮尚網の軍と500余騎の喜連川城主塩谷氏とが戦い、宇都宮尚綱が鮎瀬弥五郎の矢で戦死、大将を討たれた宇都宮軍は敗退しました。坂の名は、この鮎瀬弥五郎にちなんで「弥五郎坂」と呼ばれるようになりました。
徒歩30分
2連城橋・喜連川道標
「連城橋」は狐川とも呼ばれた荒川にかかる橋で、江戸時代には木橋がかかっていました。宇都宮藩領(城)と喜連川藩領(城)をつなぐため、または喜連川と葛城(かつらぎ)をつなぐというところから名づけられたとされています。また、蓮城橋のたもとには道標があり、1748(寛延1)年に作られたもので「右江戸道 左下妻道」と書かれています。
徒歩7分
3龍光寺
足利尊氏より創建されたと言われ、当初の名は東勝寺。足利尊氏とその弟直義が全国に設置した※安国寺利生塔(あんこくじりしょうとう)のうち下野国における安国寺に指定されていました。戦国時代、喜連川城に入った足利頼氏は、豊臣秀吉の軍勢によって焼失したこの寺を再興し、龍光院と改め、以後喜連川氏の帰依を得て江戸時代にはその菩提寺となりました。1953年(昭和28年)寺に現在の龍光寺と改められました。
※安国寺利生塔:南北朝時代に足利尊氏、直義兄弟が、北海道、沖縄を除く日本各地に設けた寺院と仏塔
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※安国寺利生塔:南北朝時代に足利尊氏、直義兄弟が、北海道、沖縄を除く日本各地に設けた寺院と仏塔
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徒歩4分
4御用堀
喜連川足利氏藩主第10代・喜連川熙氏(ひろうじ)は名君として知られ、飢饉に備えた義倉(ぎそう)や、大火から領民を守り、町中どこでも生活・農業・防水のための用水が使えるように堀を整備しました。御用堀(ごようぼり)と呼ばれ、その当時の姿を色濃く残しています。
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徒歩3分
5寒竹囲いの家
板塀より経済的であるとして喜連川足利氏第6代・喜連川茂氏(しげうじ)〔1701年1月10日生まれ1767年6月11日没〕が奨励しました。現在でも阿亀笹(おかめざさ)を使った生け垣を見ることができます。喜連川神社の夏祭り、天王際の前には毎年締め直しが行われています。城下町の雰囲気を感じられる生け垣は別名『鼈甲垣(べっこうがき)とも呼ばれています。
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徒歩3分
6喜連川神社
速須佐之男命(スサノオノミコト)と櫛名田比売命(クシナダヒメノミコト)の二柱を祭神とし、永禄6年(1563年)に創建されました。
時の城主・塩谷惟広(しおやこれひさ)が命じて、尾張の国、津嶋神社の分霊を城山の南面山腹にお祀りしたのが本社の始まりです。
例大祭は天王祭といい、その神輿渡御は暴れ神輿として近郷近在で有名です。
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時の城主・塩谷惟広(しおやこれひさ)が命じて、尾張の国、津嶋神社の分霊を城山の南面山腹にお祀りしたのが本社の始まりです。
例大祭は天王祭といい、その神輿渡御は暴れ神輿として近郷近在で有名です。
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徒歩1分
7大蔵ヶ崎城址(お丸山公園)・大手門
大蔵ヶ崎城は中世の時代に、この地を治めた喜連川塩谷氏の城で、天正十八(1590)年に廃城しました。そのため、深い堀切や大小の平場が今も残っています。現在はお丸山公園と言われており、散策路を巡ることが出来ます。散策路周辺は豊かな植生を誇り、様々な花々を楽しむことが出来ます。春には、桜・山ツツジ・ヤマブキ草の群生などが見られ、夏にはキツネノカミソリの群生も見られます。また、現在のさくら市役所喜連川支所は喜連川足利氏館跡で、入り口には大手門が復元されています。
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徒歩12分
8璉光院
山門を潜った右側に1688(貞享5)年に作られた銅造阿弥陀如来坐像(県指定)や境内に喜連川足利氏初代国朝と母の墓所があります。
また、さくら市ゆかりの童謡詩人である野口雨情が喜連川出身の妻と訪れ1905(明治38)年「梅のお寺」として発表した歌の歌碑もあります。
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また、さくら市ゆかりの童謡詩人である野口雨情が喜連川出身の妻と訪れ1905(明治38)年「梅のお寺」として発表した歌の歌碑もあります。
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徒歩23分
9専念寺
背中に1283(弘安6)年銘の珍しい鉄でできた阿弥陀如来立像(県指定文化財)があります。仏像は銅を用いるのが一般的で、鉄仏は非常に珍しく主に関東以北に出現した特殊仏です。この鉄仏は幾多の火難に遭遇しても焼失することなく、慈眼を保っているため一般の信者より、厄除け如来、心願成就、家内安全の仏として敬仰されています。このほか、お寺には喜連川神社の神輿渡御図や画家牧野牧陵・喜連川足利家の子女の墓もあります。
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徒歩12分
10金鶏山神社
鶏権現とも言われ、丘のふもとから湧き出す水が旅人の喉を潤したと伝えられています。1909(明治42年)年、喜連川神社に※合祀(ごうし)されました。
※合祀:ある神社の祭神を、別の神社で合わせて祀ることや一つの神社に複数の祭神が祀られている状態のこと。