モデルコース

Model Course

さくら市内

SAKURA City

奥州街道を歩く -氏家宿周辺-

氏家宿は、江戸時代に奥州街道、下野国塩谷郡にあった宿場町で、家数235軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒、人口879人であった。氏家宿本陣は平石家、脇本陣は伝馬屋が担っていた。江戸時代に、氏家宿の南傍、鬼怒川東岸にあった阿久津河岸(あくつかし)は、主に東北地方で獲れた米ほか特産物を鬼怒川の水運を利用して江戸に送るための集積地となり、このため氏家宿の旅籠もたいへんな活況を呈したと云われている。氏家には会津西道、会津北道、原方道、水戸道が開通し、交通の要衝地となった

コース概要

JR氏家駅

徒歩14分

1道標(氏家古町)

徒歩1分

2薬師堂河原石塔婆群

徒歩5分

3氏家本陣跡

徒歩3分

4西導寺

徒歩4分

5光明寺

徒歩11分

6今宮神社

徒歩17分

7村上家棟門

徒歩4分

8瀧澤家住宅

徒歩14分

JR氏家駅

1道標(氏家古町)

道標(どうひょう、みちしるべ)とは、道路の辻、街道の分岐点に立てられた主に江戸時代の交通標識のことです。
氏家宿の南端の曲がり角には、「右江戸海道 左水戸かさま 下だて」の道標と北向地蔵が残されています。横の大きな石碑は、書家小山霞外筆の馬頭観音でしたが、交通事故により実物は古町薬師堂に移されました。

徒歩1分

2薬師堂河原石塔婆群

関東において中世の供養塔は、緑泥片岩(りょくでいへんがん)が一般的でした。さくら市氏家地区では、緑泥片岩の代わりに鬼怒川産の河原石を加工した石塔婆が多く存在しています。これらを★板碑(いたび)と区別して 「河原石塔婆」(かわらいしとうば)と呼び、ここ古町薬師堂の横には6基並んだ河原石塔婆群があります。
★板碑:秩父産の緑泥片岩を加工し造られた石碑で青石塔婆(あおいしとうば)とも言われます。

徒歩5分

3氏家本陣跡

本陣(ほんじん)とは、 江戸時代以降の宿場で、大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの宿泊所として指定された家のことです。原則として一般の者を泊めることは許されておらず、宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多く、本陣に次ぐ格式の宿としては脇本陣がありました。

徒歩3分

4西導寺

西導寺は建久2年(1191)に氏家氏の始祖で勝山城を築いた宇都宮公頼が開いたとされる古寺で、本堂は天明4年(1784)に建てられました。延宝元年(1673)に建てられた弥勒堂は、全体が極彩色で彩られ細部には竜や獅子、象の彫刻が施されています。敷地内には本堂をはじめ、室町時代作の宝冠釈迦如来坐像やその堂、大型の五輪塔3基など多くの文化財を所有しています。
※詳細はこちら!

徒歩4分

5光明寺

さくら市南部にある勝山城の城主芳賀氏が、城の近く美女木地区に1427年(応永34年)に創建したと伝えられています。その後、1597年(慶長2年)、宇都宮氏の改易に伴って勝山城が廃城となると、光明寺も現在の位置に移転されたと言われています。身の丈2.94mの青銅造不動明王坐像は1759年に鋳造されました。
青銅造不動明王坐像は、県指定文化財となっており、その御丈は約8尺(2.42m)を越す。境内には地元出身の日本画家・荒井寛方の墓もあります。
※詳細はこちら!

徒歩11分

6今宮神社

平安時代康平3年(1060)に創建されて後、正安2年(1300)に勝山城主氏家氏の崇敬により、氏家24郷総鎮守として現在の地に遷宮されました。
境内の大イチョウは樹齢700年の古木で、栃木県銘木百選の指定され、秋には見事な黄葉で訪れる参拝者の目を楽しませています。本殿、楼門、天保飢饉絵馬、奉納句額等が市指定文化財で、社殿は荘厳にして市を代表する古社です。
※詳細はこちら!

徒歩17分

7村上家棟門

櫻野村の名主の家で、道に面した門は★「分間延絵図」(ぶんけんのべえず)にも描かれた近世の門です。この門に残された線は、1723(享保8)年の五十里洪水の水位を表しています。
★分間延絵図(ぶんけんのべえず):江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図で、問屋、本陣、脇本陣、寺社、一里塚、道標、橋などが描かれています。

徒歩4分

8瀧澤家住宅

瀧澤家は、明治期に紡績等の事業で財をなした旧家で、当主であった瀧澤喜平治は貴族院議員などを歴任し、第四十一銀行の設立や那須野が原の開拓にも尽力した人物として知られます。瀧澤家住宅は、さくら市櫻野地区の旧奥州街道沿いにあり、伝統的な築地塀・堂々たる長屋門など今なお旧家の面影を留め、明治期の重厚な雰囲気を良く残しています。現在は一般公開され中に入ることが出来ます。
※詳細はこちら!
Map