奥州街道 奥州街道とは、江戸時代に参勤交代制や商品の輸送のために整備され、幕府の道中奉行が管轄する五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の一つです。慶長六(1601)年頃から徳川家康によって道路や宿場、お知らせを掲げる高札場、一里塚、橋、河の港である河岸の設置などの整備が行われ、十七世紀中頃にほぼ整備が完了しました。 奥州街道は、日本橋から青森県津軽半島の三厩宿までと、広くとらえられていますが、幕府の道中奉行の管轄は、日光街道と重なる日本橋から現在の宇都宮氏伝馬町の交差点と、そこから分かれた白沢、氏家、喜連川、作山、大田原、鍋掛、越堀、芦野、白坂、白河の21里18町14燗半です。 奥州街道についての資料として「奥州道中宿村大概帳」「五街道其他延絵図 奥州道中分間延絵図」などがあり、当時の宿の大きさ、江戸からや隣町の宿までの距離、誰が治めていたか、名物は何か、一里塚や街並みの様子などを知ることができます。 奥州街道沿いの史跡についてはこちら! 弥五郎坂 早乙女坂は、下野国の北部(塩谷・那須)と中央部の接点にあり、戦国時代に、下野一円の領国経営を望む宇都宮氏にとって、早乙女坂を抜き喜連川を治めることは、北部支配への橋頭ほ(堡)を確保する上で最も重要な課題でありました。 このため、早乙女坂をめぐる攻防は幾度かくりかえされましたが、その中でも、天文十八(1549)年の戦は、宇都宮軍の大将尚綱が喜連川方の助っ人、鮎ヶ瀬弥五郎(左衛門尉)に射殺されるという大激戦でありました。 弥五郎の働きによって、喜連川城下のピンチが救われたため、喜連川領民は万こう(腔)の感謝を込めて早乙女坂を、弥五郎坂と呼ぶようになりました。 今、この地には、宇都宮尚綱のものと言われる供養塔が建ち、古戦場の跡を示しています。 二つの奥州街道 慶長六(1601)年、徳川幕府は全国支配のため、江戸と各地を結ぶ五街道の整備を始めました。奥州街道は、慶長九(1604)年、東山道(関街道)に代わり正街道となり、奥州の諸大名の参勤交代や、奥州と江戸を結ぶ、文物交流の中心的役割を果たしました。奥州街道は、日本橋から宇都宮宿までは日光街道と重複し、宇都宮宿から分岐して白河へ向かいます。さくら市には、奥州街道のほか、会津中海道、会津西街道、原街道の結節点となり、交流の要衡地として栄えた氏家宿と、喜連川公方の城下町でもあり、また、あゆの寿司で全国的に名を馳せた喜連川宿がありました。この古道は、たびたび山腹が崩壊するなど、難所の一つであったため、明治十三(1880)年迂回路が開削されたことにより、往時の姿をとどめています。 河東碧梧桐の句碑 「坂を下りて左右に藪あり栗おつる」 碧梧桐は正岡子規の門下の秀才で俳句界で活躍した人で知られています。この句は弥五郎坂を越え、喜連川を一望に荒川の清流を眼下にする大桜の下に一休みした時に詠まれました。また、この句碑の隣には迂回路ができたことを記念する碑も建てられています。難所の弥五郎坂に明治十三(1880)年、幅5メートル、長さ1600メートルの迂回路が竣工し、それを記念して、工事内容、裏面に関係者の名前を記し明治十六(1883)年に建てられました。工事には近隣の有志の寄付金も使い、関係宿町村343、延べ2万4729人が従事しました。 この二つの碑は、さくら市指定文化財になっています。 アクセス