大手門
喜連川は源平の合戦以来、塩谷氏が治めていました。その後、足利尊氏の分家古河公方の末えいの足利国朝を初代とし、弟の頼氏と治世が変わり、2代頼氏の代になって、現在の町役場の位置に館が建てられました。館は明治九年に焼失し、門は平成三年に復活しました。
喜連川家
喜連川家(きつれがわけ)は、足利氏の後裔。足利尊氏の次男で室町将軍代理家だった鎌倉公方の足利基氏(もとうじ)を祖とする。その鎌倉公方から敵対独立した小弓公方系足利氏が直接の先祖にあたる。豊臣秀吉から下野国喜連川(現在の栃木県さくら市)に所領を扶持され、この地名を名字としたのが興りである。喜連川家は喜連川藩主家として江戸時代を生き抜き、石高では5千石の旗本クラスではあったが、10万石の大名格としての格式を与えられていた。
鎌倉公方の後裔にあたる古河公方家とその支流の小弓公方家は、戦国の世ですでに衰亡していたが、名門家系であったことから豊臣秀吉に再興を許され、小弓公方家の足利国朝(くにとも)に古河公方家跡取の足利氏姫をめとることをすすめ、下野国喜連川で400貫の所領を与えた。喜連川は旧古河公方領でありながら、関東地方の大部分を支配した徳川家の所領からはやや離れており、徳川家に関東地方の支配を任せつつも、一部を牽制する豊臣政権による一種の政治的配慮だったとみられている。
足利国朝は文禄2年(1593年)の文禄の役従軍中に病歿。氏姫は国朝の弟・頼氏(よりうじ)と再婚し、喜連川の所領を受け継いで喜連川の名字を称した。関が原の戦い後、徳川家康によって1000石を加増されて4500石の旗本となり、交代寄合の四州と同じ扱いを受けた。ただし実際には、喜連川家は参勤交代や諸役が免除されていた上、無位無官でありながら歴代の鎌倉公方が任官した官職名を名乗ることが公式の場でも許され、さらに将軍家との主従関係すら存在しないという極めて例外的な存在だった。これらは江戸幕府によっても認められていた。喜連川家に対する特別な扱いは、同家がただ単に貴種であったのみならず、徳川家移封前の関東地方において同地方の支配者として一定の政治的権威を有した存在であり、徳川家および江戸幕府としても関東地方支配の安定化のために一定の配慮をしなければならない存在であったことが背景にあったとみられている。
基本情報
住所 | 栃木県さくら市喜連川4420-1 |
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