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喜連川のむかしばなし

喜連川のむかしばなし

喜連川を舞台にして繰り広げられている多くの「民話や伝説」があります。
昔から言い伝えられているお話をご紹介します。

かげさし璉光院れんこういん

むかし、金毛九尾きんもうきゅうびの狐が、中国から日本に渡って来て、或る御殿にひそんでいた。その狐は、後に御殿を追われて、下野の地方に逃れて来たが、いつか川上にある槻の大木の根かたに住みつくようになった。
この狐を退治しようと、後に追いかけて来た勝善卿しょうぜんのかみという人が、斧で大木の幹を切りはじめたが、不思議なことに、木の切り屑が翌日には、もとの通り、幹に納まってしまうので、作業はいっこうに進まない。そこで、思案のすえかまどをつくって、切り屑は焼きすててしまうことにした。さすがの大木も切り倒され、狐は那須野が原に逃げ去って行った。
この大木が倒れたとき、伐り手が肘を打たれたので、そこを肘内というようになった。また、押し上げられた処を押上村と呼び、木が倒れて長い窪みができたところを長久保と呼ぶようになった。
この大木は、月夜になると長く影を映して、その先が璉光院にまで届いたので「影さし璉光院」の名が生まれたと言う。また、槻の大木の根元を流れる川は、いつか狐川と呼ばれるようになり、後に喜連川と改められたとのことである。
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笹追い天王てんのう

喜連川の夏祭りは「お天王さん」と呼ばれ親しまれている。「お天王さん」とは愛知県津島市の津島神社(古くは牛頭天王社ごずてんのうしゃという)を本社と仰ぐ、東日本に多くある天王社のことである。
喜連川神社の由来は、戦国時代、喜連川の領主塩谷 惟朝しおのや これともが家臣の高塩正次まさつぐに命じて、尾張国おわりのくに(愛知県)の牛頭天皇社の祭神である牛頭天皇の御分神ごぶんしんを祭ったことにある。
高塩正次が御分神を受けて氏家村まで来ると五月女坂において戦いがくり広げられていた。このためやむを得ず御分神を一時氏家村に預けて帰り、この旨を惟朝に報告した。
戦いが終わった後、御分神をお迎えに出向いたところ、氏家村の村人は、これが霊験あらたかなる牛頭天皇社の御分神と知って返すのを拒んだ。正次は、やむを得ず隙をみて取り返し逃げ帰ろうとした。これを知った村人は竹槍を作り、これを奪い返そうと青竹を切ったが笹枝を払う暇がなく、竹に笹をつけたままで追いかけて来たが、無事御分神を持ち帰ることが出来た。
これらのことがあり、喜連川の「お天王さん」を笹追い天皇とも呼んでいる。
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護娠玉ごしんぎょくと観音さま

昔、みなもと義家よしいえ東夷征伐とういぜいばつのおり、常陸国ひたちのくに久慈郡くじぐん久慈川くじがわのほとりで宿をとった。そのとき、久慈川の渕から、二つの玉を見つけた。その玉は、久慈見くじみの玉と名づけられた。
後に、玖試見くじみ、護振玉といわれ、足利家の宝物として伝えられるようになった。喜連川家四代昭氏公あきうじこうは、明暦二年(1656)祖先をたっとぶ心から、一玉を東京市ヶ谷の月桂寺げっけいじに、また、一玉を龍光寺に奉納した。
龍光寺では、寺の宝として、観音様と共に本堂に安置してきた。観音様ご開帳の日には、おまいりする人はだれでもおがむことができた。この玉は、その後安産の守りとしても、霊験あらたかであるというので、観音様とともに、その名は近隣に知れわたるようになった。
一方月桂寺に寄進された宝玉は照泉玉しょうせんぎょくと言われた。これを礼拝した妊婦はことごとく安産であったので「子安の玉」とも呼ばれ、諸々の願いごとが叶う霊験があるという。
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きつねの嫁入り

きつれ川という名の起こりは、昔からきつねが多く棲んでいたので「きつね川」と呼んでいたことにはじまるという。
どういうわけか、春と秋の陽気のよい時季になると、宵の口に松田から鷲宿山谷にかけての山裾の道なりに、赤い火が点々と灯り、ついては消え消えてはつき、誠にきれいな幻の世界が現れたという。
この不思議な光景は、昭和の初めごろまで見られ、台町の人たちは「きつねの嫁入り」と言っていた。

「喜連川のむかしばなし」の販売店

「喜連川のむかしばなし」には、今回ご紹介したお話を含め全六十編のお話が採録されています。「喜連川のむかしばなし」は和い話い広場で購入することができます。

 

和い話い広場
栃木県さくら市喜連川4355 TEL:028-666-8370